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下町すみだ牧師館暮らし牧師の奥さん&文筆家・宮葉子のブログ             
by Annes_Tea
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宮 葉子 yoko miya
文筆家+牧師の奥さん


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墨田区のふたつの拠点を中心に、子どもの本のロングセラーを読むゆるやかなサードプレイス。幅広い年代が参加されています。


つながる・祈る・分かち合う「pray&hopeプロジェクト」を主宰。月に一度、女性たちの集まりをもっています。
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江戸キリシタン殉教地を歩く

今年はプロテスタントの信仰が日本に伝えられて150年に当たる。
先週、全国の教会をあげて、宣教150周年の祝会が横浜で開かれた。わたしたち夫婦も、最終日の礼拝に出席することができた。礼拝後は遠方の牧師先生たちなど懐かしい顔に次々と再会し、ちょっとした同窓会気分だった。母教会のHさんは「あの課題どうなった? 今も祈ってるよ」と言う。Hさんは会社員時代、昼休みになると屋上へ行き、
数百人はいる教会員の名簿を手にとりなしの祈りを続けてきた強者である。やっぱり、覚えていてくれたんだぁ。まだ叶っていないと言うわたしに、「じゃあ、引き続き祈ってるね」と励ましてくれる。

キリストを愛するわたしたちをつなぐものは祈りである。そして、時代から時代へと信仰をつないできた力も、祈りにある。祈り継がれ、そして今、わたしがここにクリスチャンとして生きている。江戸キリシタンの殉教地をめぐるツアーに参加して、あらためてそのことを認識した。

今、「クリスチャン」と言えば、プロテスタントとカトリックいずれかの信仰を持つ人のことを意味する。一方、「キリシタン」というのは、室町末期、宣教師によって日本にもたらされたカトリックの信仰を持った人たちのことである。豊臣秀吉以来、キリシタンは禁教とされ、明治維新から6年も経った1873年にようやく切支丹禁令が解かれた。それ以来、プロテスタントの信仰を携えて数多くの宣教師たちが日本に渡って来た。よく知られているイエズス会のザビエルが鹿児島に上陸したのは、それよりもはるか昔、1549年である。キリシタンからクリスチャンへ。このつながりはひとつなのだ。

今回のツアーの目的も、祈りだった。残虐な血の流された地はわたしたちに向かって叫びをあげている。これは聖書に書かれていることばだ。そして、その地のために祈れ、とも書いてある。下町の牧師や宣教師を中心に集まり、キリシタン殉教史を研究している人をガイドに招いた。江戸には、鈴ケ森と小塚原の二つの処刑場があった。今の地名で言えば、田町と南千住、つまり江戸の北と南の入り口である。新しく江戸に入ってくる者に対して、処刑者の生首を晒すなどして警告の意味を与えたと言われている。「恐れ」によって人を縛るやり方は、日本の政治の歴史が持つひとつの側面だと思う。ツアーはこの二つの処刑場をつないで、東京を車で縦断するルートをとった。



*以下、個人でも周りやすいように、実際のツアーとは異なる順路で紹介します。

南千住小塚原→カトリック浅草教会→小伝馬町牢屋敷跡→キリシタン坂→キリシタン屋敷跡→カトリック高輪教会→札の辻(元和大殉教記念碑)

小塚原刑場
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鐘ケ淵の駅から続く道をわたしたちの教会のある側とは反対へ歩いていくと、墨堤通りに出ます。首都高速に続く坂を上って隅田川を渡り、足立区南千住に入ります。JRの貨物場くらいしかなかったこの土地は、数年前から始まった再開発によって、高層マンションの立ち並ぶ新しい住宅街に様変わりしました。その新しいまちを通り抜け、JR南千住駅をめざして進むと、日光街道に出ます。それまでとは打って変わった古色蒼然としたまちの匂いに、タイムスリップしたような錯覚にとらわれます。左に直進すれば、ほどなく山谷地区です。山谷通りは通称「コツ通り」と呼ばれています。処刑場のあった「小塚原(こつかっぱら)」を略したとも言われていますが、この辺りは少し掘るだけで処刑された人たちの骨が出てきたらしく、そのことにちなんだ名前でもあるようです。ここは、蘭学者・杉田玄白たちが、「ターヘル・アナトミア」を手に入れ、刑死者の解剖に立ち合って、その解剖図を確かめたという史実でも有名です。現在、刑場跡は延命寺内にあります。寺の入り口に近づいただけで、異様な空気が感じられました。首を切られて顔のない巨大な地蔵が、入ろうとする者を見下ろし、圧倒されます。わたしはときどき、地の叫びを強く感じることがあり、そのような場合には鳥肌が立ち、気持ちの悪さに襲われます。でも、その気持ちの悪さがなくなるまで、地のために祈り続けると、やがてその感覚は去っていきます。今回のツアーの中でも、とくに深く祈らされた場所でした。


南千住回向院
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小塚原のすぐ近くに、刑死者を弔うために建てられました。ここにはねずみ小僧の墓など、江戸の有名どころの墓があり、まち歩きのスポットになっているようです。


小伝馬町江戸牢屋敷
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地下鉄小伝馬町駅のすぐそばにあります。江戸時代には懲役刑はなかったので、ここは刑務所ではなく、未決囚や有罪判決を受けた者を、刑の執行まで拘禁する施設でした。敷地は広大で、現在の十思公園、大安楽寺を含む2700坪ほどもあったそうです。安政の大獄で収容された吉田松陰終焉の地として、今も碑が残されています。


鳥越の殉教記念碑(浅草カトリック教会)
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浅草・鳥越には、処刑場があり、後にそれが小塚原に移転されたようです。鳥越神社の辺りには、ソテロ神父が建てたハンセン病患者の施設がありました。病院内の礼拝堂を拠点に活動していましたが、1613年に信徒たちが捕らえられ、小伝馬町の牢に収容された後、処刑されました。これが「鳥越の殉教」と呼ばれるもので、現在は浅草カトリック教会の裏手に、記念碑がひっそりと立っています。


キリシタン坂と小石川キリシタン屋敷
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文京区春日から、「庚申坂」と呼ばれる石段を小日向に向かって下って行くと、地下鉄の小石川検車区車両場に当たります。その下を抜けると、再びなだらかな坂道になります。これはキリシタン坂と呼ばれ、7000坪ほどのキリシタン屋敷が広がっていました。

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現在の地名で言えば、茗荷谷にあたる場所です。呼び名からキリシタン大名の屋敷かと思ってしまいますが、ここは激しい拷問で信仰を捨てさせたキリシタン(ころび信者)を幽閉するための屋敷牢でした。一度はころんでも、再び密かに信仰を伝えようとするキリシタンたちの処置に困り、ひとつの敷地内にまとめて住まわせ、世間から隔離する策がとられました。現在は、なだらかな坂をはさんだ閑静な住宅街で、当時の記憶など何ひとつ感じさせません。それでも、迫害されたキリシタンの子孫が今なお暮らしている家や、殉教記念館を個人的に営んでいる方もおられるようです(非公開)。宣教師たちが多く幽閉されたために、鎖国中だった日本にとっては、ある種、長崎の出島のような異文化交流の場の役目を果たしたとも言われています。1725年、延焼によって屋敷は焼け、倉庫だけが残りました。


カトリック高輪教会
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1622年、長崎で宣教師などキリシタン55名が火刑および斬首されました。元号にちなんで「元和の大殉教」と呼ばれるこの事件に続いて、翌年には、三代将軍・徳川家光の命により、江戸でも50名のキリシタンが札の辻で処刑されました。この殉教地に近いカトリック高輪教会には、江戸大殉教の記念碑と、地下には大殉教に関する資料が展示されています。獄死なども含めると、江戸時代における殉教者は4〜5万人という説もあります。収蔵されている踏み絵は、踏まれ過ぎたのでしょうか、摩擦のために表面はつるつるでした。プロテスタントでは、キリストの像を作ったり拝んだりしないので、これを踏むことに何の意味もないと思いますし、また、実際、キリシタン発見にはあまり役立たなかったようです。それよりも、このような方法でキリシタンかどうかを見極めようとしたところに、日本人の精神性が表れていて興味深いと思います。


江戸の殉教の記念碑
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教会の中庭に立てられた記念碑です。大理石のモニュメントに入ってみると、まるで万華鏡の中のような不思議な世界が広がっていました。天井にちりばめられた十字架のスリットから差し込む光がステンレスの壁に反射をして、幻想的なダンスを繰り広げていました。


札の辻・元和大殉教跡地
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北の刑場・南千住から始まった今回の殉教地をめぐる旅は、南の刑場である札の辻で終わりです。わたしたちはルートを車で走りましたが、当時は、小伝馬町の牢屋から、札の辻まで自分たちの処刑のために、徒歩で行進させられました。江戸時代には、札の辻は、高札場だったことからその名がつけられ、全国各地に同じ地名があるようです。


元和キリシタン遺跡
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処刑が行なわれた札の辻は、現在、住友不動産三田ツインビルの敷地になっています。東海道の入り口であるこの場所に、街道に沿って火刑のための50本の柱が立てられたそうです。わたしたちが訪れた季節には、シバザクラが一面に咲いていました。都教育委員会が整地し、この記念碑を立てました。亡くなったキリシタンに対する鎮魂の意味を込めて、美しい広場にしてあるそうです。血の歴史の場所を、美しいもので覆って慰めたいという気持ちは理解できます。

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この広場のいちばん奥、ゆるやかな階段をのぼった高台に、碑が置かれています。さらにのぼっていくと、済海寺へとつながっています。長崎の殉教地をめぐる旅をしたときにも感じたことですが、キリシタンの殉教が起きた場所の多くは、現在、寺になっています。また、そのまちを囲むように小高い場所に寺を林立させているのも見られます。これは、キリシタンたちの信仰を封じ込めようとしているものかと思っていましたが、今回、案内役の方から、処刑されたキリシタンたちに祟られないようにするという意味が強いのだと教えていただきました。聖書には、「死者が相手を祟る」という発想はありません。まさに、「死者の祟り」という発想こそ、日本人に特有のものだと思います。よくないことが起きないように、供養をしたり、お祓いをしたり、供え物をしたりと、今でもさまざまな形で表れています。

キリストが十字架に架けられたとき、最後にこんなことばを残しました。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカの福音書23章34節)。相手を祟るのではなく、相手のしたことにかかわらず、赦すこと。この「赦し」こそ、キリストの愛の姿であり、わたしたちの内側が自由にされる祝福への鍵なのです。今回、キリシタンたちを迫害する側の人間の残酷さを知るほどに、この人たちのしたことを赦すのは、人間の力ではとても不可能であることを痛感しました。赦しの力は、ただ神の愛からあふれ流れ出るものであることを、それぞれの地を踏み、祈るたびに思い、感謝せずにはいられませんでした。

by Annes_Tea | 2009-07-12 23:21 | お知らせ(イベント他)
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