下町すみだ      築70年の牧師館暮らし。犬と庭と日々の糧。              
by Annes_Tea
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宮 葉子 yoko miya
文筆家+牧師の奥さん

『赤毛のアン』の講演や読書会ワークショップ、執筆依頼などは、下記のメールにてご連絡ください。








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▷「大人のための子どもの本の読書会」墨田区のふたつの拠点を中心に、子どもの本のロングセラーを読むゆるやかなサードプレイス。幅広い年代が参加されています。


▷ つながる・祈る・分かち合う「pray&hopeプロジェクト」を主宰。月に一度、女性たちの集まりをもっています。
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サウンドアートパーティ『etude for goodnews-cafe』開きます

海の日、かまぼこ兵舎の小さな空間を使って、「goodnews-cafe」を開きます。
これはわたしが煎茶道で学んだ「どこでもお手前を」という出前のココロで、
個人的に行なっているカフェ活動です。

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今回は、サウンドアーティストmamoruとのコラボです。
半年間のヨーロッパ滞在でレジデンスや個展を終えて帰国したmamoruが、
19日に恵比寿でイベントを行なうと聞きつけて、下町すみだにも寄り道を願った次第です。
当日は、滞在の様子の紹介や、最近取り組んでいる「etude」(*下記参照)
というシリーズのサウンドパフォーマンスをしてもらう予定です。

ひとつの空間の中で、人と音がつながり、そして人と人がつながる。
そんな新しい音を体験してみませんか?
ごくごく小さな集まりです。友だちの家へ遊びに行くような感覚でおいでください。
まだ数名、余裕がありますが、準備の関係上、前日までにご予約ください。

当日は自転車部プロデュースのあの「かき氷自転車」も出動します!


●日 時:2009年7月20日(月・海の日) 15:00〜(14:30開場)

●会 場:墨田聖書教会
    〒131-0031東京都墨田区墨田3-19-4
    www.jobsumida.com/(地図があります)

●入 場:1000円(カフェ代含む)

●内 容:サウンドアーティストmamoruのパフォーマンス、トーク、カフェ他  

◎お問い合わせ&ご予約:(前日までにご予約ください)
このブログの左側のバーから、氏名、人数、連絡先をご記入の上、メールを送ってください。

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mamoruの活動についてはココ↓
 http://www.afewnotes.com

etude って何 ? (by mamoru  http;//www.afewnotes.comより)
「捨てようと思って、くしゃっと縮めたサランラップが、元へ戻ろうとかすかな
音をたてているのを聞いた。もう10年近くも前のことだ。なんてことはない音
、でも気になって録音して、他の音に混ぜたりしていた。もともとそういう他愛
もない日用品が発する音を「使って」作品を作っていたのだけど、耳を傾けるう
ちに「そのこと自体」を作品にしたいと思い、etudeを書きはじめた。1年程前に
サランラップを小さなアクリルキューブにおしこみ、宝石箱に収めた。他にもヘ
ッドフォンのようにしてみたり、ガラス瓶に詰めたり、ライトボックスにおいて
みたり。これがetude no.12。

音を通して「日常」を読み替え、そのアイデアをいろいろな形にして伝える、ア
イデアを誰かとシェアすることで予想だにしない新しい価値の可能性、人との関
係が生まれる事もある、そんな練習曲、etude for everyday objects。 」

*「etude」:練習曲。音楽ではアイデアを体現する小品の意味もあり、ひとつの
ジャン ルとして成立し、重要な作品も多い。

         ↓
参考までに。mamoruの恵比寿でのイベントのリンク/関連作品画像などあり。
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by Annes_Tea | 2009-07-16 00:04 | お知らせ(イベント他)
江戸キリシタン殉教地を歩く

今年はプロテスタントの信仰が日本に伝えられて150年に当たる。
先週、全国の教会をあげて、宣教150周年の祝会が横浜で開かれた。わたしたち夫婦も、最終日の礼拝に出席することができた。礼拝後は遠方の牧師先生たちなど懐かしい顔に次々と再会し、ちょっとした同窓会気分だった。母教会のHさんは「あの課題どうなった? 今も祈ってるよ」と言う。Hさんは会社員時代、昼休みになると屋上へ行き、
数百人はいる教会員の名簿を手にとりなしの祈りを続けてきた強者である。やっぱり、覚えていてくれたんだぁ。まだ叶っていないと言うわたしに、「じゃあ、引き続き祈ってるね」と励ましてくれる。

キリストを愛するわたしたちをつなぐものは祈りである。そして、時代から時代へと信仰をつないできた力も、祈りにある。祈り継がれ、そして今、わたしがここにクリスチャンとして生きている。江戸キリシタンの殉教地をめぐるツアーに参加して、あらためてそのことを認識した。

今、「クリスチャン」と言えば、プロテスタントとカトリックいずれかの信仰を持つ人のことを意味する。一方、「キリシタン」というのは、室町末期、宣教師によって日本にもたらされたカトリックの信仰を持った人たちのことである。豊臣秀吉以来、キリシタンは禁教とされ、明治維新から6年も経った1873年にようやく切支丹禁令が解かれた。それ以来、プロテスタントの信仰を携えて数多くの宣教師たちが日本に渡って来た。よく知られているイエズス会のザビエルが鹿児島に上陸したのは、それよりもはるか昔、1549年である。キリシタンからクリスチャンへ。このつながりはひとつなのだ。

今回のツアーの目的も、祈りだった。残虐な血の流された地はわたしたちに向かって叫びをあげている。これは聖書に書かれていることばだ。そして、その地のために祈れ、とも書いてある。下町の牧師や宣教師を中心に集まり、キリシタン殉教史を研究している人をガイドに招いた。江戸には、鈴ケ森と小塚原の二つの処刑場があった。今の地名で言えば、田町と南千住、つまり江戸の北と南の入り口である。新しく江戸に入ってくる者に対して、処刑者の生首を晒すなどして警告の意味を与えたと言われている。「恐れ」によって人を縛るやり方は、日本の政治の歴史が持つひとつの側面だと思う。ツアーはこの二つの処刑場をつないで、東京を車で縦断するルートをとった。



*以下、個人でも周りやすいように、実際のツアーとは異なる順路で紹介します。

南千住小塚原→カトリック浅草教会→小伝馬町牢屋敷跡→キリシタン坂→キリシタン屋敷跡→カトリック高輪教会→札の辻(元和大殉教記念碑)

小塚原刑場
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鐘ケ淵の駅から続く道をわたしたちの教会のある側とは反対へ歩いていくと、墨堤通りに出ます。首都高速に続く坂を上って隅田川を渡り、足立区南千住に入ります。JRの貨物場くらいしかなかったこの土地は、数年前から始まった再開発によって、高層マンションの立ち並ぶ新しい住宅街に様変わりしました。その新しいまちを通り抜け、JR南千住駅をめざして進むと、日光街道に出ます。それまでとは打って変わった古色蒼然としたまちの匂いに、タイムスリップしたような錯覚にとらわれます。左に直進すれば、ほどなく山谷地区です。山谷通りは通称「コツ通り」と呼ばれています。処刑場のあった「小塚原(こつかっぱら)」を略したとも言われていますが、この辺りは少し掘るだけで処刑された人たちの骨が出てきたらしく、そのことにちなんだ名前でもあるようです。ここは、蘭学者・杉田玄白たちが、「ターヘル・アナトミア」を手に入れ、刑死者の解剖に立ち合って、その解剖図を確かめたという史実でも有名です。現在、刑場跡は延命寺内にあります。寺の入り口に近づいただけで、異様な空気が感じられました。首を切られて顔のない巨大な地蔵が、入ろうとする者を見下ろし、圧倒されます。わたしはときどき、地の叫びを強く感じることがあり、そのような場合には鳥肌が立ち、気持ちの悪さに襲われます。でも、その気持ちの悪さがなくなるまで、地のために祈り続けると、やがてその感覚は去っていきます。今回のツアーの中でも、とくに深く祈らされた場所でした。


南千住回向院
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小塚原のすぐ近くに、刑死者を弔うために建てられました。ここにはねずみ小僧の墓など、江戸の有名どころの墓があり、まち歩きのスポットになっているようです。


小伝馬町江戸牢屋敷
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地下鉄小伝馬町駅のすぐそばにあります。江戸時代には懲役刑はなかったので、ここは刑務所ではなく、未決囚や有罪判決を受けた者を、刑の執行まで拘禁する施設でした。敷地は広大で、現在の十思公園、大安楽寺を含む2700坪ほどもあったそうです。安政の大獄で収容された吉田松陰終焉の地として、今も碑が残されています。


鳥越の殉教記念碑(浅草カトリック教会)
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浅草・鳥越には、処刑場があり、後にそれが小塚原に移転されたようです。鳥越神社の辺りには、ソテロ神父が建てたハンセン病患者の施設がありました。病院内の礼拝堂を拠点に活動していましたが、1613年に信徒たちが捕らえられ、小伝馬町の牢に収容された後、処刑されました。これが「鳥越の殉教」と呼ばれるもので、現在は浅草カトリック教会の裏手に、記念碑がひっそりと立っています。


キリシタン坂と小石川キリシタン屋敷
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文京区春日から、「庚申坂」と呼ばれる石段を小日向に向かって下って行くと、地下鉄の小石川検車区車両場に当たります。その下を抜けると、再びなだらかな坂道になります。これはキリシタン坂と呼ばれ、7000坪ほどのキリシタン屋敷が広がっていました。

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現在の地名で言えば、茗荷谷にあたる場所です。呼び名からキリシタン大名の屋敷かと思ってしまいますが、ここは激しい拷問で信仰を捨てさせたキリシタン(ころび信者)を幽閉するための屋敷牢でした。一度はころんでも、再び密かに信仰を伝えようとするキリシタンたちの処置に困り、ひとつの敷地内にまとめて住まわせ、世間から隔離する策がとられました。現在は、なだらかな坂をはさんだ閑静な住宅街で、当時の記憶など何ひとつ感じさせません。それでも、迫害されたキリシタンの子孫が今なお暮らしている家や、殉教記念館を個人的に営んでいる方もおられるようです(非公開)。宣教師たちが多く幽閉されたために、鎖国中だった日本にとっては、ある種、長崎の出島のような異文化交流の場の役目を果たしたとも言われています。1725年、延焼によって屋敷は焼け、倉庫だけが残りました。


カトリック高輪教会
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1622年、長崎で宣教師などキリシタン55名が火刑および斬首されました。元号にちなんで「元和の大殉教」と呼ばれるこの事件に続いて、翌年には、三代将軍・徳川家光の命により、江戸でも50名のキリシタンが札の辻で処刑されました。この殉教地に近いカトリック高輪教会には、江戸大殉教の記念碑と、地下には大殉教に関する資料が展示されています。獄死なども含めると、江戸時代における殉教者は4〜5万人という説もあります。収蔵されている踏み絵は、踏まれ過ぎたのでしょうか、摩擦のために表面はつるつるでした。プロテスタントでは、キリストの像を作ったり拝んだりしないので、これを踏むことに何の意味もないと思いますし、また、実際、キリシタン発見にはあまり役立たなかったようです。それよりも、このような方法でキリシタンかどうかを見極めようとしたところに、日本人の精神性が表れていて興味深いと思います。


江戸の殉教の記念碑
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教会の中庭に立てられた記念碑です。大理石のモニュメントに入ってみると、まるで万華鏡の中のような不思議な世界が広がっていました。天井にちりばめられた十字架のスリットから差し込む光がステンレスの壁に反射をして、幻想的なダンスを繰り広げていました。


札の辻・元和大殉教跡地
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北の刑場・南千住から始まった今回の殉教地をめぐる旅は、南の刑場である札の辻で終わりです。わたしたちはルートを車で走りましたが、当時は、小伝馬町の牢屋から、札の辻まで自分たちの処刑のために、徒歩で行進させられました。江戸時代には、札の辻は、高札場だったことからその名がつけられ、全国各地に同じ地名があるようです。


元和キリシタン遺跡
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処刑が行なわれた札の辻は、現在、住友不動産三田ツインビルの敷地になっています。東海道の入り口であるこの場所に、街道に沿って火刑のための50本の柱が立てられたそうです。わたしたちが訪れた季節には、シバザクラが一面に咲いていました。都教育委員会が整地し、この記念碑を立てました。亡くなったキリシタンに対する鎮魂の意味を込めて、美しい広場にしてあるそうです。血の歴史の場所を、美しいもので覆って慰めたいという気持ちは理解できます。

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この広場のいちばん奥、ゆるやかな階段をのぼった高台に、碑が置かれています。さらにのぼっていくと、済海寺へとつながっています。長崎の殉教地をめぐる旅をしたときにも感じたことですが、キリシタンの殉教が起きた場所の多くは、現在、寺になっています。また、そのまちを囲むように小高い場所に寺を林立させているのも見られます。これは、キリシタンたちの信仰を封じ込めようとしているものかと思っていましたが、今回、案内役の方から、処刑されたキリシタンたちに祟られないようにするという意味が強いのだと教えていただきました。聖書には、「死者が相手を祟る」という発想はありません。まさに、「死者の祟り」という発想こそ、日本人に特有のものだと思います。よくないことが起きないように、供養をしたり、お祓いをしたり、供え物をしたりと、今でもさまざまな形で表れています。

キリストが十字架に架けられたとき、最後にこんなことばを残しました。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカの福音書23章34節)。相手を祟るのではなく、相手のしたことにかかわらず、赦すこと。この「赦し」こそ、キリストの愛の姿であり、わたしたちの内側が自由にされる祝福への鍵なのです。今回、キリシタンたちを迫害する側の人間の残酷さを知るほどに、この人たちのしたことを赦すのは、人間の力ではとても不可能であることを痛感しました。赦しの力は、ただ神の愛からあふれ流れ出るものであることを、それぞれの地を踏み、祈るたびに思い、感謝せずにはいられませんでした。

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by Annes_Tea | 2009-07-12 23:21 | お知らせ(イベント他)
知られざる墨東キリシタン史を歩く(キュックリヒ女史をめぐる旅)
これから、下町の春はいいですよ。
ご一緒にまち歩きをしてみませんか?
5人以上からご案内しています。
メールにてお問い合わせください。

e0165236_237385.jpg「知られざる墨東キリシタン史を歩く」ルート例

東武伊勢崎線・鐘ケ淵駅西口出発→西口商店街(編み物教室看板、旅館や蕎麦屋など古い家屋が点在)→鐘ケ淵紡績(カネボウ)跡地(戦前、敷地内に鐘ケ淵福音教会、教会付属幼稚園や子どもの家、宣教師洋館、木造牧師館あり)→堤通り(鐘ケ淵紡績のレンガ塀)→たぬき湯通り→旧玉ノ井(赤線跡)→墨田聖書教会(戦後すぐ、コンセットハットを再生した会堂)


わたしが暮らす鐘ケ淵のまちは、隅田七福神のルートになっている。多聞寺から、白髭神社、そして向島百花園に向かうのが定番のようだ。新年はもちろんのこと、隅田川の桜が見ごろを迎えると、小さなリュックを背負った年配の夫婦連れが駅を降りる。ミニ鳥居や地蔵がマンションの足元にまで立っている古いまちだから、隅田七福神以外にも寺や神社にまつわる昔話は豊富にある。

ところが、教会となると、このまちで昔話を聞くような機会はまずない。なにしろ数が少ないのだ。わたしたちの教会は戦後すぐに建てられたので、それなりに歴史はある。でも、やはりその歴史を語れる人はいないし、写真や日誌といった記録も残っていない。いちばんの原因は、アメリカ人宣教師が教会の土台を作る前に、体調を崩して自国に帰ってしまったためだ。その後も、次々と牧師が来ては何年かで立ち去ってしまったらしい。それだけ宣教にはむずかしい土地だったということかもしれない。今では手に入るのは、切れ端のような話だけ。それでも何とかそれらをつなげていくうちに、ドイツ人のキックリーさんという名前にたどり着いた。

キックリーさんってだれなんだろう? この疑問を発端に、鐘ケ淵のキリスト教関連の歴史を探る旅を始めた。残念ながら、証言者としての建物は残っておらず、発掘したのは目に見えない物語だけである。そして、それらを少しずつつないで勝手に作り上げたのが「知られざる墨東キリシタン史」なるまち歩きのルート。福の神を回って歩く七福神めぐりを少しばかり意識して、「恵みの地図」を歩くというほどの意味だ。初めてコースをお披露目したのは2年前。向島の「こぐまカフェ」で企画したまち歩きのひとつとしてだ。興味のある人が何人か集まれば、個人的にときどき案内をしている。

洗礼を受けたとき、自分が日本ではマイリティになるということなど少しも考えていなかった。ただし、場所が変われば、クリスチャンはマイノリティでも何でもないのだけど。クリスチャンの両親のもとに生まれた10代の青年が、この国での生きづらさという内面的な問題を克服したのは、韓国に旅に行ったのがきっかけだったという。韓国には教会は当たり前のようにあるし、クリスチャンも多い。現大統領の李明博も、俳優のペ・ヨンジュンもカトリックという違いはあれどクリスチャンですものね。

マイノリティということに関して言えば、以前、若者に人気の歌手、ステイシー・オリコのインタビュー記事を面白く読んだ。彼女はクリスチャン家庭に育ち、最初はクリスチャン・ミュージックレーベルからデビューし、自らも宣教師になりたいと思っていたという。日本ではクリスチャンが少ないと聞いて、「マイノテリィってクールよね」と答えている。ふうん、クールか。その考え方こそ、まさにクール!




以下、昨年の夏の終わりのツアーの様子を何枚かご紹介します。参加してくださったのは、墨田区と台東区の牧師先生や宣教師のみなさんでした。
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「鐘ケ淵はカネボウの城下町だった」という話をしてくださったのは、地元の郷土史研究家のSさんです。カネボウつまり鐘ケ淵紡績の発展と運命をともにしたまちという意味では、その通りかもしれません。カネボウはついには解体してしまい(クラシエという名前で一部残っていますが)、高齢化したまちは典型的な都市の過疎へ、商店街はシャッター通りになり・・・まるで炭坑町のようです。再びまちが活気づくことを願い、日々祈るばかり。

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西口にある商店街は、カネボウの最盛期にはおおいに賑わっていたそうです。働いているのは女工さんが多かったので、編み物教室が駅前にはいくつかあったそうです。

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商店街で女工さんたちに人気だったのは、大福を売る和菓子屋さん。カネボウの敷地内に、向島の老舗「志満ん草餅」まで出店していたという話もあります。当時の面影はどこにもありませんが、ところどころに古いたたずまいの建物を見つけることはできます。

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この広い敷地だけではなく、堤通りをはさんだ向かい側の土地もカネボウの所有だった時代がありました。そこには、クラブハウス的な洋館があり、お花やお茶など、さまざまなお稽古を学ぶことができたとか。女工さん相手のカルチャーセンターのようなものですかね。

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コンクリートの割れ目からわずかに見えるレンガが、当時の建物の名残です。綾瀬橋の方には、まだ同じようなレンガを使った古い建物や蔵などを見ることができます。

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当時を知るお年寄りが、カネボウという大規模工場が建てられたことによって、まちが経済的に潤うだけではなく、精神的にもよいものを残してもらったと話していました。今では、カネボウと鐘ケ淵のつながりを示すものは、この一枚の立て看板くらいなものです。残念ながら、日本で初めての託児所や幼稚園を敷地内に開いたと言われるドイツ人女性のことは何も書かれていません。その人こそ、通称「キックリーさん」こと、ゲルトルート・エリザベス・キュックリヒ女史、わたしが探し求めていた宣教師です。関東大震災前に来日し、以来、カネボウ内の洋館で暮らしていたようです。戦後、放火の犯人にしたてられてこのまちを追い出されたというウワサが残っていたのですが、調べてみると事実はまったく違っていました。

彼女は日本の幼児教育の祖とも言える人で、大学で幼児教育を学ぶ学生たちの指導をするなど、その筋では有名な方のようです。戦後は、戦災孤児の面倒をみるために埼玉の加須市に移り住み、児童福祉施設を設立しました。献身的な働きが認められて、加須市の名誉市民にまで選ばれています。生涯を日本で暮らし、日本政府とドイツ政府から、それぞれ勲章を授与されてもいます。こんなにも社会に認められるよい働きをしたにもかかわらず、長年暮らした鐘ケ淵では無名に近く、看板に一行もないことはある意味ナゾです。

キックリーさん(日本人はキュックリヒと発音できなかったようです)から聖書の話を聞いたまちの人たちがクリスチャンとなり、その中の数人が教会設立の夢を抱き、さらにアメリカ人宣教師との出会いがあり、わたしたちの墨田聖書教会が生まれたということのようです。初穂なる人たちもその子孫もだれなのかよくわかりませんが、今わたしが教会で暮らしているということは、彼女の蒔いた種は育ち続けているということですよね。キックリーさんという女性については、これからも少しずつ調べていこうと思っています。

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旧玉ノ井、もとは特殊飲食街(赤線)です。丸みを帯びた建物が、いわゆるカフェーの特徴。ずいぶん取り壊されましたが、窓の鉄格子などを見ると、なんとも言えない気持ちになります。売春禁止法の成立や、働いていた女性たちの自立訓練やケアなどに、救世軍を筆頭にクリスチャンたちが大きな働きをしたそうです。



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by Annes_Tea | 2009-02-20 13:22 | お知らせ(イベント他)


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